宇都出ブックセンター

本が大好きな宇都出雅巳(まさ)が、本の紹介をしています。
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自分を知り、自分を変える―適応的無意識の心理学
 潜在意識、無意識、というと、そこに何か神秘的な力を想像しがちになりませんか?

 マーフィーをはじめ、目標達成・願望実現の方法では、潜在意識の活用は定番です。

 さらには、潜在意識レベルではだれもがつながっている……なんていうことが、ユングの「集合的無意識」なる言葉を使って(ユングの真意かどうかはさておき)よく説明されています。

 ただ、こんなふうに潜在意識や無意識を扱うことで、かえって、潜在意識や無意識といったものに過剰な期待をしたり、逆にその本当の力を過小評価していることにつながっています。

 われわれの今この瞬間、振り返ってみるだけでも、多くの部分を潜在意識・無意識に頼って、私たちは生きています。

 たとえば、心臓をはじめとする内蔵の働き。

 意識していませんよね。 でも勝手に制御され動いています。

 また、今、このブログ記事を読んでいることを可能にしている、眼をはじめとするさまざまな働き。

 何気なく、読んで理解していますが、この背後には意識していないさまざまな働きがあるからこそ、読んで理解できているわけです。

 潜在意識・無意識というのは、意識が何か抑圧したものが収められている場所というような捉え方ではなく、われわれが生きるうえで当然必要な部分・機能としてとらえることができるのです。

 このように潜在意識や無意識を捉え直したのが、


 「適応的無意識」です。
適応的無意識の現代的な見方では、判断、感情、動機などの心の興味深い働きの多くが抑圧のためではなく、効率性という理由から、意識の外で起こる。心は、低水準の処理(たとえば、知覚過程)が意識に到達しないようになっているだけでなく、多くの高次の心理過程や状態もアクセスできないよう設計されているのである、心は、多くのことを同時に並行しておこなうことができる、よくデザインされたシステムである。(P11)
本書はそんな適応的無意識についてさまざまな角度から光を当て、このわれわれ自身が知らない「もうひとりの自分」を明らかにしてくれます。

われわれの中には、間違いなく、わたしたち自身が知らない「もうひとりの自分」がいるのです。

では、どうすればこの「もうひとりの自分」を知ることができるのか?

それを知るカギは……


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| 宇都出雅巳 | | 17:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
『触感をつくる』(岩波科学ライブラリー)
まず、 タイトルの言葉に注目してください。

「触覚」ではなく「触感」です。

単なる「触覚」だけではなく、「触にまつわる主観的な質感(クオリア)」として「触感」に焦点を当てています。

確かにほかの「視覚」や「聴覚」などは、それぞれが単独で存在し、ほかの感覚からの影響はほとんど受けないといえます。

しかし、何かに触れた時の「触感」は、単なる指先の「触覚」だけでなく、対象の見た目や触れた指を動かすときの音などで変化します。

まさに、「触覚」ではなく「触感」です。

そして、この「触感」。ほかの感覚にくらべて捉えにくいものです。

なぜなら、「包括的なイメージの総体として感じられるからであり、主観的な体験でもあるから」です。

本書はこの捉えにくい「触感」について、最新の研究成果を次々と紹介しながら迫っていきます。

本書を読み進めていくと、「触感」というぼんやりしたものが、だんだんととらえられ、その「触感」(つまり、触感の触感)を強く感じられる気がしてきます。

身体や身体感覚の大事さはよく言われることですが、そこにはまさにこの「触感」が強く絡んできます。

ぜひ、この本で「触感」に触れてもらいたいです。

それでは、いくつか、本書の中で面白いなあと「ググっ」と感じた話を紹介しましょう。
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| 宇都出雅巳 | | 21:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
ソウルダスト――〈意識〉という魅惑の幻想
 <意識>は脳内のマジックショーに過ぎない、

こうしたうえで、

<意識>には人生を生き甲斐のあるものにする効能があると説いている。
発達史からわかるのは、意識が三つのレベルで一生をいっそう生き甲斐のあるものにすることだと思う。意識ある生き物は現象的意識を持つことを楽しむ。彼らは自分が現象的意識を持って生きている世界を楽しむ。そして彼らは現象的意識を持っている自己を楽しむ。ただし、「楽しむ」という言葉は弱過ぎる。少なくとも人間の場合は次のように言うほうがふさわしいだろう。人間は現象的意識を持つことを満喫する、自分が現象的意識を持って生きている世界を愛する、現象的意識を持っている自己を尊ぶ、と。

もう少し噛み砕いて、どんな喜びかというと


 1) 「自分は存在しているんだ!」「生きているんだ!」という実感・喜び

 2) 「なんて美しい世界に囲まれているんだ!」という実感・喜び

 3) 「この世界は自分が創り出しているんだ!」という実感・喜び


著者はたくさんの詩も引用しながら、<意識>賛歌、<人生>賛歌を歌い上げています。

それは、さまざまな宗教で語られる体験や、いわゆるスピリチュアル経験と重なります。

私が学び・実践しているコーアクティブ・コーチングでいえば、3つの指針のうち「プロセス」にあたるものといえます。

こうして、<意識>の持つ意味を解き明かし、さらには「死」というものにも考察を加えていくのですが……

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| 宇都出雅巳 | | 10:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
記憶は忘れるためにある
 この本は記憶術の本のように、記憶力をよくしようという本でありません。

「記憶力は悪いほどいいのだ」

と断言する著者が、
ああ、記憶力が悪くて良かった。それに、これからもっともっと記憶力が衰えていくとは、何て幸せなんだ! 皆さんにもこんな感じを実感してもらえればと願う。
そんな気持ちで書いた本だそうです。なぜ、そんなことがいえるのかというと、記憶からの自由が幸福につながると考えているからです。
長く持続し最も幸福感の高い幸福は、過去への執着である「記憶」と、未来への執着である「欲求」という二方向の束縛から超越した時に得られる至福なのだ。
「そんな宗教くさい話ですか。。。」と思われる人がいるかもしれませんが、本書の特徴はそれだけではありません。

著者の専門はロボティクス(ロボットをどう作るかの学問)で、その知見から「フィードバック制御」「フィードフォワード制御」という二つのモデルと「記憶」を絡めて、記憶の役割を位置づけているところが大きな特徴であり、類書にないものです。
人生には、記憶力をフル活動させて苦労しながら色々なことを学習していく前半のフィードバック的フェーズと、記憶力よりも体験と言うか、知恵と言うか、思考力を大切にして豊かに生きる後半のフィードフォワード的フェーズがあると考えられる。
「フィードバック」はなんとなくイメージがつくとしても、「フィードフォワード」はピンとこなくて、「何のこっちゃ?」と思われる人も多いでしょう。私もうまく説明できないので、本書、もしくは著者の別の著書・『脳はなぜ「心」を作ったのか』(筑摩書房)を読んでください。

ただ、「記憶」ということについての著者の視点が面白く、ここからもヒントが得られると思うので、著者の視点を二つご紹介しておきましょう。
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| 宇都出雅巳 | | 23:59 | comments(0) | - |
社会の不正に憤る龍馬は賢いのか? 馬鹿なのか?
 突然ですが、こんな状況を想像してみてください。

あるお金持ちのAさんがあなたと友人のBさんのところにやってきて、100万円のお金をわたし、それを二人でわけていいですよと言いました。ただし、Aさんはお金の分け方にルールを決めてそれを守ることが条件だとしました。その条件とは次のようなものです。

1) 100万円をどのように分けるのか、あなたとBさんであらかじめ相談してはいけません

2) お金をどう分けるかは、Bさんが一方的に決めて提案、あなたはBさんの提案を受け入れることも拒否することもできます。

3) あなたが提案を受け入れれば、Bさんもあなたもお金を手にすることができます

4) あなたが提案を拒否すれば、Bさんもあなたもお金をまったく受け取ることはできません

 そして、Bさんは、Bさんの取り分を80万円、あなたの取り分を20万円という提案をしました。さて、あなたはどうしますか?

 「なんでこんなに不公平なんだよ!」と怒って、提案を拒否して結局、一円も受け取らないでしょうか? それとも、「20万円でももらえれば……」と言って、提案を受け入れるでしょうか?

 合理的に考えれば、1円でも多くもらえたほうがいいわけですから、どんな提案であれ(たとえ、Bさんが99万9999円、あなたが1円の提案でも)、提案を受け入れたほうがいいわけですが、実際にはそうなりません。

 自分の取り分が減れば減るほど、提案の拒否率は高くなることが実験で確かめられています。(実際の実験では、100万円ではなく、10ドル、つまり1000円ほどの金額です)

 あなた自身もそれはそうだろうと思うでしょう。われわれにとって、単純に自分の利益、損失だけで判断するのではなく、他の人々の利益、損失によっても大きく影響を受けるものなのです。「他人の不幸は蜜の味」なんてこともいわれますし、他人の幸せが自分を不幸な気持ちにすることもありますね。

 とここで終われば、人間って単純じゃないなあ、他人との相対的比較の中で生きているんだなあということですが、本書は脳科学の本。この提案を受け入れるかどうかに影響を与える脳の特定部分に話は進んでいきます。

 その脳の特定部分とは、「腹内側前頭前皮質」

この部分に傷を負った人は、先ほどの状況で提案を拒否する比率が、傷を負わない人にくらべて高かったのです。これはどういうことなのでしょう?
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| 宇都出雅巳 | | 22:00 | comments(0) | - |
「道具の使用」が「心」・「自己」・「知性」を創った

本書を手に取ったきっかけは、このブログでも紹介した『ミラーニューロン』で、本書の第3章「知性の起源--未来を創る手と脳のしくみ」を担当している入来篤史さんの研究が紹介されていたからでした。

入来さんは、人間の知性の起源は「道具の使用」ではないかと考え、生物、動物、そして手から道具、さらには時間の流れの出現までたどっていきます。

章を構成している見出しを紹介すると次のようになります。

1:ヒトは生物である−−それは秩序を創る命を生み出した

2:ヒトは動物である−−それは動くために脳を生み出した

3:ヒトの手と眼の特異な形態−−それは動かすための装置となった

4:見て確かめて巧みに動かす脳のしくみ−−それは自己の動きを自覚させた

5:道具を使う脳神経の働き−−それは物を動かす心を産み出した

6:ヒトは心を宿し道具世界に生きる−−それは時間の流れを産み出し未来を創った

ヒトは動物です。動物とは文字通り、「動」くもの。ただし、もともとは「動く」といってもそれはえさを見つけるため、もしくは危険から逃げ出すためのものです。運動器官も感覚器官もその二つの目的の最適化されています。そして、この運動・感覚器官の仲立ちとして神経系が働くことによって、動物は周囲の環境の状況によっていちばん適した運動を、ほとんど自動的に行うのです。

つまり、動物の運動は、環境の中に組み込まれ、好むと好まざるとにかかわらず宿命的に最適化された、一連の「自然現象」の一部であると考えられるのである。

動物の運動も一連の「自然現象」の一部である。ついつい、われわれは動物の中に自由意志を見て、自然現象から自立したように感じますが、それは草や木が風にたなびいたり、太陽の方向に向かって伸びたりするのと同じといえるのかもしれません。

ですから、動物の行為を人間が観察すれば、あたかもそこに「意図や目的」があるかのように想定することはできるかもしれませんが、動物自身の心のうちにその「意図」が具体的にどう宿っているかは疑問に思えてきます。むしろ、その行為を発動する直接的な原因としての「意図的なもの」は、行為する主体というよりもその場の環境の中にあると考えた方がよさそうです。
こんなふうに自然に埋め込まれていた動物が自然から分離するきっかけは「手」、つまり移動する手段から「手」が解放されたこと。それが脳の発達を生み、視覚と体性感覚の統合を生み、さらには道具の使用による身体の客体化、そして「心」の誕生へと進んでいくのです。 普段、何気なく使っている「手」、そしてさまざまな「道具」。 これがわれわれの「心」、「自己」、さらには「知性」までも創りだしたのです。そして、その「知性」が新たな「道具」を創り、その「道具」がわれわれの「心」、「自己」、「知性」を創りかえるのです。 あなたは今、どんな「道具」を使い、それがどんな「心」「自己」「知性」を創っているのでしょう?
| 宇都出雅巳 | | 06:57 | comments(0) | - |
脳は文字を読むようには作られていない
 現代日本を生きるわれわれにとって、字を読んだり、本を読んだりするというのは、当たり前のことで、自然に身につくことだと思われているかもしれません。

でも、よく考えてみれば、昔はみんながみんな字を読めるわけではありませんでした。そしてさらにいえば、人間は字さえも使っていなかった時代があったのです。

本書は文字の誕生からそれが脳にどのような影響を与えたのか、そして子どもの脳はどのように文字を読み、本を読むために発達していくのか? 文字を読むこと、本を読むことが、脳をどのように発達させるのか? ディスレクシアと呼ばれる「読字障害」にも触れながら、解説していきます。

本書を読む中で、字や本を読んだりすることが、いかに当たり前ではないのか、そして脳のさまざまな部分が協力しあって読むことを可能にしていることがよくわかります。

私には3歳半の子どもがいて、まさに現在進行形で字を読む、本を読むのを学ぶプロセスを目の当たりにしているので、特に興味深いものでした。著者によれば、生後5年間の環境が、その子の読む力を大きく左右すると主張しています。
読字の学習は幼児がひざに抱かれて、初めてお話を読んでもらう時から始まる。生後5年間にそんな機会がどれほどあったか、なかったかが、後の読字能力を予測する最良の判断材料になる。(中略)ある著名な研究では、言語面で恵まれていない家庭の子どもたちと言語の刺激を受ける機会が豊かな家庭の子どもたちが耳にする単語の数には、幼稚園に上がるまでに早くも3200万語の開きが生じると確認されている。
同じ5歳の子ども。

脳の中はもちろんのぞけませんが、5年間の間に字を読むための発達においてかなりの差が生じている可能性があるわけです。もちろん、それが取り戻せないわけではありません。ただし、字を読むことが当たり前のことでないことをもう一度改めて思い出し、これだけの差がついている可能性があることを自覚すれば、子どもに接するときに「頭がいい・悪い」といった短絡的な判断をしないで接しられるようになるのではないでしょうか。

そして、現代。

字を読む中心としては「本」だった時代ではなくなっています。音声や画像などのメディア、そしてその記録。さらにはインターネットで流れる膨大な情報。そして、「本」自体も、amazon Kindle、apple のipadなど、電子書籍が広がり始めています。これが人間の脳にどのような影響を与えるのか。おそらく何らかの影響を与えるのに違いありません。

本書では、文字が生まれることで、それまでの口承文化が終わっていった歴史、そして、その象徴として古代ギリシア、特にソクラテスの主張を紹介しており、俯瞰的な視点を与えてくれます。

ソクラテスは、文字の出現、文字を書いて、それを読むということに大きな危惧を抱いたといわれています。それは、教師や社会の指導を受けることなく、知識・情報が伝わり、誰が読むのか、どんな文脈で読むのか、どう解釈するのかが問われなくなるからです。ソクラテスは次のように言っています。
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| 宇都出雅巳 | | 22:37 | comments(2) | - |
脳はつぎはぎだらけ、けっこういい加減なもの

ここ最近の脳ブームで、脳にスポットライトがあたっています。

その多くは、いくらコンピュータをはじめ技術が進んでも、実現できない脳の素晴らしさを伝えています。

「しっかりと頭を使え!」

なんて、頭、すなわち脳を指差して言われたりしますが、私たちは「脳」は素晴らしく巧妙にデザインされたものだとイメージしていないでしょうか?

本書はそんなイメージをある意味、粉砕することを目的としてます。

脳の設計はどう見ても洗練されてなどいない。寄せ集め、間に合わせの産物に過ぎない。にもかかわらず、非常に高度な機能を多く持ち得ているというのが脅威なのである。機能は素晴らしいのだが、設計はそうではないのだ。

そして、面白いことに、そんな無計画さ、非効率さが、われわれ人間の感情や近く、行動を生み出しというのです。本書の副題にあるように、脳の進化が、愛、記憶、夢、さらには神をもたらしていったのです。

本書は次のような構成になっています。

 1章:脳の設計は欠陥だらけ?

 2章:非効率な旧式の部品で作られた脳

 3章:脳を創る

 4章:感覚と感情

 5章:記憶と学習

 6章:愛とセックス

 7章:睡眠と夢

 8章:脳と宗教

 9章:脳に知的な設計者はいない

このように、最初の3章ぐらいまでに、神経細胞の構造から脳の構成まで基本的な脳のなりたちが説明され、第4章から8章までの人間の基本的な特徴がどのようにして行われているのか? どのように生み出されてきたのかに迫っていきます。そして、最後の9章がまとめです。9章の最後にはこのように書かれています。

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| 宇都出雅巳 | | 12:43 | comments(0) | - |
自己意識は何のために生まれてきたのでしょう?
ニコラス ハンフリー
紀伊國屋書店
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(1993-11)

今、この文章を読んでいるあなたは、「自分」という意識を持って読んでいるでしょう。誰でもない、自分自身が読んでいることを自覚して読んでいると思います。

さて、この「自己意識」、簡単にいうと「意識」はなぜ生まれてきたのでしょう?

「生まれてきたも何も、これがないと生きられないし、生きていることにもならない」

そんなふうに思う人もいるかもしれません。確かに、自己意識というのはあって当たり前になっていますが、でも本当にそうでしょうか?

あなたがこれを読んでいるとき、何かしらの姿勢を保っていると思います。その姿勢を保つためには、いろいろと身体は調整を行っているはずですが、あなたはそれをすべて意識して行っているでしょうか? さらにいえば、呼吸。あなたは意識して吸って、吐こうとしていたでしょうか? そういわれると、呼吸に意識が向いたかもしれませんが、それまでは意識していませんでしたよね。でも、しっかりと呼吸を吸い、吐いていた。

このように、よく振り返ってみれば、われわれが生きている中で「自己意識」「意識」が占める、コントロールしている領域というのは本当に限られているものです。また、ほかの動物、さらには植物はどうでしょう? 彼らには「自己意識」「意識」があるでしょうか? 持っていると思えば、そのようにも見えますが、持っていないという仮定もできるでしょう。

このように、「自己意識」「意識」というのは、生きていくうえで当たり前のものではないのです。

それでは、なぜ生まれてきたのでしょう? 

そして、生き残るうえで何が役立っているでしょう?

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| 宇都出雅巳 | | 13:50 | comments(0) | - |
あなたはあなたの身体よりも大きな存在です
サンドラ ブレイクスリー,マシュー ブレイクスリー
インターシフト
¥ 2,310
(2009-04)

「身体の声を聴く」
「身体を大事にする」

病気の人はもちろんですが、身体が大事なことはかなり理解され始めてきていると思います。ただ、それは、「住んでいる家を大事にしよう」「部屋をきれいにしよう」というのと同じように、自分が所有している「身体」を大事にするという発想からきているのではないでしょうか? 身体を、「自分」という意識や心、それを生み出している脳の乗り物として位置づけていませんか?

しかし、実は「自分」という意識や心が生まれるために、身体というものが必要不可欠なのです。

身体は脳を入れて動き回るための単なる運搬具ではない。両者の関係は完璧なまでに互恵的だ。身体と脳はお互いのために存在している。(中略)そんな身体は感覚のレーゾン・デートル、存在理由だ。そして皮膚と身体から感じる感覚――触覚、温覚、痛覚など、本書で取り上げるほんの数種の感覚が、あなたの心の基盤となる。他の感覚はみな、相対的な利便性のために追加されたものに過ぎない。せんじ詰めて言えば、人間は視覚や聴覚が無くても、元気いっぱいに暮らしていける。(中略)意味は動作主性(行動し選択する能力)に根差し、動作主性は身体化によって左右される。実を言うと、これこそ、人工知能学会が数十年にわたってフラストレーションを味わった末に、苦労してようやく得た教訓である。真に知的なものは、身体のないメインフレームでは発達しようとしない。現実の世界には、肉体を持たない意識など存在しないのだ。

触覚、温覚、痛覚などが、視覚や聴覚よりも大事な基盤であるというのにも驚かれたかもしれません。ただ、私にはこのことが自分の実体験からもなんとなく納得できます。

たとえば、速読訓練でのブレイクスルー体験。

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| 宇都出雅巳 | | 18:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
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