宇都出ブックセンター

本が大好きな宇都出雅巳(まさ)が、本の紹介をしています。
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| スポンサードリンク | - | | - | - |
広井良典さんの最新作『創造的福祉社会』
 1年半ほど前、本書の著者である広井良典さん本は集中的にこのブログで紹介しました。

  → http://utsude.jugem.cc/?cid=17

本書はその広井さんの最新刊です。

これまでの広井さんの著書と同様、これまでの本で書かれていたことを繰り返しつつ、まとめながら、さらにそこに新たな主張が加えられるという構成になっています。


今回の本の特徴としてすぐに目に付くのが、タイトルにある「創造的」という言葉でしょう。

広井さんも書かれていますが、「創造的」という言葉と、「福祉社会」という言葉は、スッと結びつかないかもしれません。

ただし、そこにこれまでの「創造的」ということを見直そうという思いが込められています。
「創造性というと経済競争力や技術革新といったことと連動して考えられることが多いが、発想を根本から変えてみると、これまでのような「成長・拡大」の時代とは、実は市場化・産業化(工業化)・金融化といった「一つの大きなベクトル」に人々が拘束・支配され、その枠組みの中で物を考え行動することを余儀なくされていた時代と言えるのではないだろうか。だとすると、私たちがこれから迎えつつある市場経済の呈上かの時代とは、そうした「一つの大きなベクトル」や”義務としての経済成長”から人々が解放され、真の意味での各人の「創造性」が発揮され開花していく社会としてとらえられるのではないだろうか。
「創造的」や「創造性」という言葉は、無条件に善だと思われがちですが、そこにはいろいろな色がついていることを自覚しながら使うことはほんと大事だと思います。

完全に無色透明になることはできませんし、そこにはいい・悪いはないのですが、常に気をつけていないと、社会の流れに絡めとられていることはよくあります。次のような記述にも「ハッ」と自分自身が囚われていたことに気づく人もいるのではないでしょうか?
以上のようなことを含め、こうした若い世代のローカル志向を、”内向きになった”とか”外に出ていく覇気がない”といった形で批判する議論が多いように思うが、それは全く的外れな意見だと私は思う。海外に”進出”していくのが絶対的な価値のように考え、また「”欧米”=進んでいる、日本やアジア=遅れている」といった固定的な観念のもとで猪突猛進してきた結果が、現在の日本における地域の疲弊であり空洞化ではなかったのか。むしろ若い世代のローカル志向は、そうした日本や地域社会を”救う”萌芽的な動きと見るべきであり、そうした動きへの様々なサポートや支援のシステムこそが強く求められている。
さらに「生産性」という言葉の再定義にも進んでいきますが、これについては、『グローバル定常型社会』にも述べられていて、このブログでも紹介したのでそちらを読んでみて下さい。

  → 『グローバル定常型社会』

本書での新しい展開は、第3章に集約されているように感じました。

第3章のタイトルは「進化と福祉社会−−人間性とコミュニティの進化」

その最初の「はじめに」には、

 「人間についての探究」と「社会に関する考察」をつなぐ、とあります。

こういった視点、発想が、私が広井さんの著作に引かれるところであります。

ミクロとマクロの往復運動ともいえるでしょうか。私自身もそういったことが大事だと思いますので。

広井さんの本は構成が非常にスッキリしていて明確なので読みやすいのですが、本書も章立てもスッキリし、各章ごとにその柱がかかれています。

そして、この第3章の柱は次の3つです。







続きを読む >>
| 宇都出雅巳 | 広井良典 | 10:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
ケア学−−越境するケアへ

かなりしつこいですが、また広井良典さんの本です。

本書は、私が 年前に読んで衝撃を受けた『物語としてのケア』(野口裕二著 医学書院)と同じ「シリーズ ケアをひらく」の中の1冊で、しかもこのシリーズの第1号です。

出版は2000年9月。広井さんの同テーマの本・『ケアを問いなおす』(ちくま新書)が1997年なので、それを発展させる形の本となっています。あとがきで、『ケアを問いなおす』との違いがいくつか挙げられていますが、そのうちの一つが「コミュニティそして自然という方向への議論を展開したこと」

コミュニティについては、広井さんは昨年、『コミュニティを問いなおす』でメインテーマに取り上げられていますが、ここで「コミュニティ」というテーマが浮上したことは興味深かったです。

そして「あとがき」でそのことについて触れられているのですが、その内容が、自分が行っているコーチング(コーアクティブ・コーチングシステム・コーチング)に共鳴し、大好きな「ニューロロジカルレベル」(NLPユニバーシティのロバート・ディルツさんのモデル)にも通じるものだったので、かなり長いのですが、引用させてもらいます。

続きを読む >>
| 宇都出雅巳 | 広井良典 | 19:37 | comments(0) | - |
グローバル定常型社会
JUGEMテーマ:読書

毎度おなじみの広井良典さんの本です。1年前の2009年1月の出版です。

タイトルどおり、これまで広井さんが展開してきた「定常型社会」というコンセプトをグローバルに、つまり国際社会、国際経済にまで展開した内容です。

定常型社会をはじめ、使われているコンセプトはこれまでの広井さんの本を読んできた人にはおなじみのものが多いかもしれません。ただ、第2章で展開される国際経済論は新たなものといえるでしょう。

広井さんの本はきわめて体系的に展開されていきますが、この本も例外ではなく、はじめに−−「グローバル定常型社会」の可能性で、本書の問題意識とその構成が明確に示されています。そこから一部紹介して、この本がどういう本なのか理解してもらいましょう。

まずは、「グローバル定常型社会」の基底となる基本認識は、
「21世紀後半に向けて世界は、高齢化が高度に進み、人口や資源消費も均衡化するような、ある定常点に向かいつつあるし、またそうならなければ持続可能ではない」
というもの。れに加えて、「分配」のあり方やその公正さを含んだものとしています。 

そして、こういった社会で「地域自給プラス再分配モデル」をめざすべきだと、広いさんは主張しています。

これは以下の3つ

 世界市場モデル:市場経済が世界全体に浸透すべきであり、介入は最小限であるべき
 世界市場プラス再分配モデル:市場経済の浸透は認めたうえでなんらかの再分配があるべき
 小地域自給モデル:地球上の各地域・社会の「風土的・環境的多様性」を重視すべき

を想定し、2つめと3つめの組み合わせたものです。

なぜこの「地域自給プラス再分配モデル」なのか、そしてそれが具体的にはどういうものなのかを、さまざまなタイムスパンで歴史を振り返りながら、「グローバル定常型社会」の展望を描いていきます。

 第1章 持続可能な福祉社会−−数十年の視座から
 第2章 グローバルシステム−−数若年の視座から
 第3章 風土/開放定常系−−数千年〜数億年の視座から
 第4章 グローバル定常型社会へ−−ローカルからの出発

といった構成です。

あまりにも範囲が広く、大きな議論でその全貌を紹介するわけにはいきませんが、私が面白いと思った考えや視点などをいくつか紹介したいと思います。
続きを読む >>
| 宇都出雅巳 | 広井良典 | 15:35 | comments(0) | - |
ケアを問いなおす
JUGEMテーマ:読書
 またまた、広井良典さんの著書です。本書の出版は12年ほど前の1997年11月です。

「ケア」

をキーワードに、「ケア」についての深堀りと同時に、人間とは何なのか? 医療とは? 福祉とは? 死とは? 消費とは? 科学とは? が問われていきます。

本書の目次を紹介すると

 プロローグ:ケアとは何だろうか
 第1章:ケアする動物としての人間
 第2章:死は医療のものか
 第3章:高齢化社会とケア
 第4章:ケアの市場化
 第5章:ケアの科学とは
 第6章:<深層の時間>とケア
 エピローグ:生者の時間と死者の時間

広井さんの本らしく、さまざまな領域を横断していきますが、これまた広井さんの本らしく、最終章で<時間>論があります。

広井さんは1994年に出版された『生命と時間−−科学・医療・文化の接点』(勁草書房)で独自の時間論を展開し、それを発展させる形で、いろいろな著書に時間論を書いています。本書もその1つで、このブログですでに紹介した2001年刊の『死生観を問いなおす』(ちくま新書)で展開された時間論の1つ前の形になります。それぞれの時間論の変化を眺めてみるのも面白いです。

本書での時間論は次のように3つの時間に分けた形になっています。
続きを読む >>
| 宇都出雅巳 | 広井良典 | 21:35 | comments(0) | - |
「人生前半の社会保障」から「定常型社会」、そして「持続可能な福祉国家」へ
 3冊連続で、広井良典さんのちくま新書からの著書です。

この本が出版されたのは2006年7月で、『コミュニティを問いなおす』よりも前になります。

分野横断的な内容が多い広井さんの本ですが、この本はそういった分野横断的な内容を「持続可能な福祉社会」というコンセプトでまとめて、さらに広い範囲にまたがる内容になっています。はじめにの冒頭ではこう書かれています。
本書は、「人生前半の社会保障」というテーマを導入としつつ、「持続可能な福祉社会」というコンセプトを中心にすえて、これからの日本が志向すべき社会のありようについての全体的な構想を描こうとするものである。

目次構成は次のようになっています。かなり幅広い内容であることがお分かりになるでしょう。

プロローグ:「人生前半の社会保障」とは?
第1章:ライフサイクル論
第2章:社会保障論/雇用論
第3章:教育論/「若者基礎年金」論
第3章付論:年金論
第4章:福祉国家論/再分配論
第5章:定常型社会論/資本主義論
第6章:環境論/総合政策論
第6章付論:医療政策論
第7章:コミュニティ論
エピローグ:グローバル定常型社会へ
広井さんの日本に対する現状認識の基本は、「限りない成長」が終わり、求心力を失って、個々人が孤立化していること。
いわば、「ムラ社会」の”単位”が「農村→カイシャ・核家族→個人」という形でどんどん縮小し、あたかも個人一人ひとりが閉じたムラ社会のようになり、新たな「つながりの原理」を見出せないでいる、というのが現在の日本社会ではないだろうか。

この現状を打開すべく、さまざまな分野を眺め、そしてつなぎつつ、新たな「つながりの原理」を提示しています。私も多かれ少なかれ、同じような問題意識は持ち、組織変革、コミュニケーション、コーチングなどにかかわってきたと思うのですが、社会保障などの制度論には全く不案内で、その可能性もわかっていませんでした。しかし、改めて制度の大事さもこの本からわかりました。

さて、プロローグで出てくる「人生前半の社会保障」

なんだか違和感のある言葉じゃないですか?
続きを読む >>
| 宇都出雅巳 | 広井良典 | 22:52 | comments(0) | - |
コミュニティを問いなおす
 「コミュニティ」というと、印象深い思い出があります。

それは、東京学芸大学の野口裕二教授の研究室を訪ねて、私が学び・実践していたコーアクティブ・コーチングについて話をしたときのことです。(野口先生はナラティヴ・アプローチの研究者で、このブログでも先生の著書『物語としてのケア』や編書『ナラティヴ・アプローチ』を紹介しています。)

私は『物語としてのケア』を読んで、コーアクティブ・コーチングの先進性やすぐれている点を確認できたとともに、さらなる成長の可能性・必要性を感じました。

ちょうど、そのあとご縁があって、研究室を訪ねる機会に恵まれ、コーアクティブ・コーチングについて説明するととともに、ナラティヴ・アプローチからのご意見をうかがおうと思ってお会いしました。

ただ、野口先生が私たちの話に興味をもたれたのは、コーアクティブ・コーチング自体ではありませんでした。強い関心を示されたのはコーアクティブ・コーチングのワークショップに参加した人たちが、強いつながりを持ったコミュニティを作っていることでした。

コーアクティブ・コーチングのワークショップは、各コースが2.5日〜3日間にわたりますが、その参加者同士のつながりはとても強いものです。メーリングリストが作られることはもちろんのこと、その後も飲み会や勉強会が長く続きます。 ワークショップの参加者は20代から60代まで、職業もばらばらですが、それを超えた強いつながりが、コースを通して生まれます。

そういったつながり、コミュニティが生まれているところに野口先生は興味を示され、そこから、「カイシャ」というコミュニティが弱くなり、人々が新たなコミュニティを求めているのだろうというような話をしたのを覚えています。

コーチングのワークショップですから、参加者は最初はコーチングを学びにくるわけですが、コーチングを学んでできるようになるというより、むしろ、仲間ができる、仲間とつながるということに多くの人が喜びを見出していた気がします。

ワークショップをリードしていた私自身、コーチのトレーニングをしているのか、それとももコミュニティ・ビルディングをしているのかわからないところがありました。

本書を読んで、そんな昔の体験を思い出しました。 本書のプロローグではこうあります。

戦後の日本社会とは、一言でいえば「農村から都市への人口大移動」の歴史であったが、本書の中で論じていくように、都市に移った日本人は(独立した個人と個人のつながりという意味での)都市的な関係性を築いていくかわりに、「カイシャ」そして「(核)家族」という、いわば”都市の中のムラ社会”ともいうべき、閉鎖性の強いコミュニティを作っていった。

そうしたあり方は、経済全体のパイが拡大する経済成長の時代には、カイシャや家族の利益を追求することが、(パイの拡大を通じて)社会全体の利益にもつながり、また個人のパイの取り分の増大にもつながるという意味で一定の好循環を作っていた。そうした好循環の前提が崩れるとともに、カイシャや家族のあり方が大きく流動化・多様化する現在のような時代においては、それはかえって個人の孤立を招き、「生きづらい」社会や関係性を生み出す基底的な背景になっている。

著者のこの問題意識は多くの人に共有されるところでしょう。さてこれからどうするのか?

『坂の上の雲』のような時代をうらやましく思っても、あのように「ニッポン」というコミュニティにまとまり、実際に個々人が利益を得るような時代はこないでしょう。

著者は今後の課題を次のように言います。

日本社会における根本的な課題は、「個人と個人がつながる」ような、「都市型のコミュニティ」ないし「関係性」とういものをいかに作っていけるか、という点に集約される。
キーワードは、「個人と個人がつながるような都市型のコミュニティ」。そして、それに対比されるのが「農村型コミュニティ」です。
続きを読む >>
| 宇都出雅巳 | 広井良典 | 00:10 | comments(0) | - |
「死んでいる時間のほうが生きている時間よりもずっと長い」
 『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書)を読んでから、興味をがぜんもって、広井良典さんの著書をいろいろと読んでいます。本書は、2001年11月に出版されたものです。

タイトルになっている「死生観」とは著者の言葉を借りれば、
「私の生そして死が、宇宙や生命全体の流れの中で、どのような位置にあり、どのような意味をもっているか、についての考えや理解」。
あなたの「死生観」はどんなものでしょう? 

と言われて、すぐに答えられる人は多くないでしょう。私もそうです。日本では、死生観に関することが正面から取り上げられることがほとんどないからです。
考えてみれば、戦後の日本社会ほど、すべてが「世俗化」あれ、現世的なこと以外を考えるのはおかしなことだ、とされた社会は世界的に見ても珍しいと言えるのではないだろうか。ある意味では経済成長、または物質的な冨の拡大ということ自体が、戦後の日本人にとってひとつの強力な「宗教」として機能した、と言えるのかもしれない。
この死生観が現代の日本において空洞化しているという危機意識が著者に強くあり、それが本書を書かせた動機になっています。「死生観の空洞化」、つまり、
死の意味がわからないということであり、同時に「生の意味づけ」がよく見えない状態
です。

本書で著者は死生観を問いなおしていくのですが、その核心に「時間」を据えています。死生観を問いなおすにあたって、ライフサイクル、宇宙の始まり・終わり、そして永遠に意味などが絡んできますが、それらがすべて「時間」に関することだからです。

「時間」といってもなんだか当たり前で、考える意味がないように思うかもしれませんが、本書で紹介されている次の3つの質問を考えたとき、あなたはどう思うでしょう? 次の3つの質問それぞれに、あなたは「イエス」と答えるでしょうか? それとも「ノー」と答えるでしょうか?

(1) この私が死んだ後も、時間は流れ続ける(または、時は刻み続ける)か?……yes/no

(2) すべての人間(人類全体)が死に絶えた後も、時間は流れ続ける(または時は刻み続ける)か?……yes/no

(3) 宇宙がすべて消滅した後も、時間は流れ続ける(または時は刻み続ける)か?……yes/no

さて、どうでしょう? こうやって考えると、「時間」というものが少し揺らいできたかもしれません。

本書では、この「時間」を探り、その中で死生観を問いなおしていきます。

広井さんはどの著書でもそうですが、明確なフレームワークで、系統だって文章を進めてくれます。本書では、「時間」に関する次のようなフレームワークが骨格になっています。
続きを読む >>
| 宇都出雅巳 | 広井良典 | 16:58 | comments(0) | - |
+ LINKS