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心理療法からコーチングを考える

 本書は今は亡き心理療法家・河合隼雄さんが1992年に出版したものです。

河合さんはユング派の分析家としてのユング心理学の紹介や実践だけでなく、日本に心理療法やカウンセリングを一般化、定着させることに大きな役割を果たされました。その河合さんが、「心理療法とは何か?」という本質的な問いにかかわる考えに焦点をおいて書いたのが本書です。
目次を見ると、幅広い視点から「心理療法」に迫っていることがわかります。

第1章 心理療法とは何か?
第2章 心理療法と現実
第3章 心理療法の科学性
第4章 心理療法の教育
第5章 心理療法と宗教
第6章 心理療法における文化・社会的要因
第7章 心理療法における技法
第8章 心理療法の初期
第9章 心理療法の諸問題
第10章  心理療法の終結
第11章  心理療法家の訓練

そして、この目次の「心理療法」を「コーチング」と置き換えてみると、コーチングにかかわっている人にとって、とても興味のある、関心が高いトピックであることに気づかれるのではないでしょうか?

心理療法、セラピー、そしてカウンセリングとコーチングの違いについては、よく質問されますし、その違いについてコーチとして理解し、クライアントに説明できることは必要です。ただ、その境界はきっちり引けるものでもなく、共通する部分はたくさんあります。コーチングは日本に入ってからたかだか10年あまりの歴史であり、先達である心理療法やカウンセリングから学ぶことはとても多いと思っています。

心理療法家、セラピスト、カウンセラーを名乗る人はもちろんですが、コーチの人にもぜひ読んでもらいたい一冊です。本書を読んでもらえれば、それまで心理療法やセラピーに対する思い込みが崩れて、結局、コーチングと目指すところや基本スタンスは同じであることがわかるでしょう。そして、自らのコーチングを振り返るきっかけになるでしょう。

河合さんは、心理療法とは何かを考えるための出発点として、次のような言葉で心理療法を表現しています。

心理療法とは、悩みや問題の解決のために来談した人に対して、専門的な訓練を受けた者が、主として心理的な接近法によって、可能な限り来談者の全存在に対する配慮をもちつつ、来談者が人生の過程を発見的に歩むのを援助すること、である。

ここにある「発見的に歩む」というのは、

万人共通の方法や法則が決まっていてそれを「適用」するのではなく、そのつど、適切な道を「発見」しなくてはならぬことを意味している。「

心理療法」というと、何か症状を診断して、それに対する治療法を処置すると思われていた人がいるかもしれませんが、そうではないないのです。コーアクティブ・コーチングでは、「Dance in the moment(クライアントと共に、瞬間瞬間から創り出す)」という礎がありますが、それに通じる部分があります。対象が「人」である以上、こうなるのは当然ともいえるかもしれません。

さらに、心理療法の特徴を3つのモデルを示しながら説明しています。

 医療モデル:症状→面接・自由連想→病因の発見→情動を伴う病因の意識化→治癒

 教育モデル:問題→調査・面接→原因の発見→助言・指導による原因の除去→解決

 成熟モデル;問題、悩み→治療者の態度により→クライアントの自己成熟過程が促進→解決が期待される

(「治療者の態度」とは、「クライアントという存在に対して、できるだけ開いた態度で接し、クライアントの心の自由なはたらきを妨害しないと同時に、それによって生じる破壊性があまり強力にならぬように注意すること」。

 さて、心理療法はこの3つのモデルのうち、どのモデルに拠っているのでしょう?

お分かりかと思いますが3つめの成熟モデルです。最初の二つは原因と結果の関係に注目した「因果的思考」に基づいていますが、成熟モデルでは、クライアントの自己成熟の力に頼っているのです。

人間の心には人間の意識をこえた自律性を潜在させており、それは一般にはある程度抑えられているが、治療の場という「自由にして保護された空間」を与えることによって、人間の心の奥にある自律的な力に頼り、生き方の新しい方向性を見出そうとするのである。

ただし、河合さんはこの成熟モデルでも、「治療者がオープンな態度をとるならば、クライアントの自己成熟の傾向が強められる」というところに因果的思考が認められるとして、中国の老子の「道(タオ)」で展開されている「自然(じねん)モデル」がもっとも心理療法の本質を示しているといいます。治療者が「道(タオ)」の状態にあることによって、「道(タオ)」の状況が自然に生まれることを期待するものです。

これらのモデルは「治す」のか「治る」のかにかかわってくるところです。医学モデルであれば「治す」になるでしょうし、自然モデルであれば「治る」になるでしょう。教育モデル、成熟モデルはその中間となるでしょう。河合さんはどのモデルがいい・悪いではなく、次のことに注意することを言っています。

「治す」タイプの治療者は、それを行うために自分がよって立つ理論にクライアントに方を合わせようとし過ぎて、「解釈」を押しつけたり、不当な要求をしたりして、クライアントの本来的な生き方を歪ませようとしていないかを常に反省する必要がある。「治る」ことを強調する人は、クライアントの自主性という考えに甘え、治療者の責任や能力という点で厳しさに欠けるところがないかを反省するべきである。一番困るのは、「クライアントの力で治ったのです」などと言いながら、治療者は自分が治したのだと考え、自我肥大を起こしてしまうことである。

このあたり、コーチングを行っていても常に直面する点です。クライアントの力を信じながらも、コーチとしてその場をしっかりと支え、コーアクティブ・コーチングであれば「3つの指針」にしたがって、クライアントの目の前の具体的な悩み・課題といった「小さな主題」だけでなく、その奥にあるクライアントがどう生きるかどうあるかといった「大きな主題」に踏み込んでいくことを行う必要があります。
「主題はクライアントから」であると同時に、コーチはクライアントが光り輝くスターである存在を信じて、そこに向かうことを決して諦めないのです。

コーアクティブ・コーチングであれば、「小さな主題」「大きな主題」という二層構造で表現しているところを、河合さんは「自我」「無意識的な心のはたらき」、「たましい」といった言葉で表現しているように思います。

たとえば、クライアントが「私は最近学校に行っていないのです」と言ったとき、「何時から」とか「なぜ」とか治療者が尋ねると、下手をすると、クライアントは情報の提供者、治療者は情報を収集して考える人、というような形になってしまう。さりとて、治療者が黙っていては関係が切れてしまう。そこで、関係を維持しつつ相手の自主性を尊重するような聞き方がなされねばならない。しかし、ここで「自主性」と言っても、むしろ、クライアントの自我ではなく、自我をこえた無意識的な心のはたらきの自主性を尊重すると考えるべきである。
治療者は、クライアントが語る、時には波瀾万丈とも言えるような個々の「事件」に注目するのではなく、そのような事件にまきこまれざるを得ないようなことまでして、その背後にあるたましいは、何を問いかけようとしているのか、それに耳を傾けようとするのである。

同じ話を聴いていても、聴き手である心理療法家やコーチがどこに焦点を当てているかで、まったく聴こえてくるものは違います。私は聴き方の技術として「事柄」と「人」という枠組みを使っていますが、コーアクティブ・コーチングでは「小さな主題」と「大きな主題」、カウンセリングでは「言葉」と「気持ち」、そして、河合さんがいうような「自我」「事件」と「無意識的な心のはたらき」「たましい」など、いろいろな焦点の当て方があります。

そして、どこに焦点を当てるかは、クライアントではなく、心理療法家やカウンセラー、コーチの側の責任なのです。さらに、どのレベルに焦点を当てるのか、どの程度まで引き受けるか? それは心理療法家、コーチなどの器の大きさによって、限界もあるでしょう。河合さんは次のように書いています。

治療者はクライアントの内的過程が生じるための「容器」として存在しているのだが、そのためには、自分の限界を知っておくべきである。もちろん、人間誰しも自分の限界に挑戦しており、それによってこそ向上してゆくのであるが、クライアントが自分の限界をこえると判断したときは、そのことを率直に話し合うのがよい。それによって、もっと適切な他の治療者を見出すときもあるし、「限界」を明らかにしたことによって、クライアントも考え直し、また関係が継続され、あらたな発展が見られるときもある。ともかく、限界以上のことを無理してしていることを認識していないときは危険である。

このあたり、うつの人や以前にうつだった人に対して、コーチはどうかかわるべきか? どんな場合に「こころの専門家」に任せるべきか? などとも絡むところです。それは、何か客観的基準としてはないように思います。ここで河合さんが書いているように、まずは自分の「限界」を認識していること。そして、率直にクライアントと話し合うこと。コーアクティブ・コーチングでは「意図的な協働関係(Designed Alliance)」といって、関係を二人で意識的にデザインすることを重視していますが、まさにそれが大事だと思います。

ここまでで、まだ第1章の内容なんですね。。。なんだか長くなりそうですが、もう少し。

第2章 「心理療法と現実」では、「何が現実なのか?」という本質的なところにいきなり入ってきます。「現実」は1つじゃないの? と思う人も多いかもしれませんが、先ほどあげたように、どこに焦点を当てるかで聴こえるものは変わってきます。「現実」が1つなら単純ですが、そうはいかないんです。もちろん、現実を1つにすることもできるでしょうし、ビジネスの問題解決に絞った「コーチング」などはそういうものになると思いますが、それでは、「人」というものの可能性を引き出せなかったり、結局は何も変わらなかったりします。

心理療法家は、「唯一の正しい現実」が存在すると考えるよりは、現実を人間がどう認知するか、そして、そのような認知の仕方は、その人にとってどのおうな意味をもち、周囲の人々とどのように関係するか、ということに関心を払うということになる。そこで、そのような「現実」を認知する人間の意識ということを考えると、人間の意識は層構造をもつと考える方が、その現実認識の在り方を考える上で好都合である。「

意識の層構造」として、表層意識・深層意識といった考えが紹介されていますが、そこでは深層意識としてのファンタジーや夢、元型、イメージといったものの重要性が強調されています。

第3章「心理療法の科学性」では、科学技術万能の時代の中で、何かの方法を使ってモノだけでなく人も操作しようという傾向があることに警鐘を鳴らしています。1つの例として、「うちの子どもを学校へ行かせるようなボタンはないのですか」と相談にきた親が挙げられています。これと似たようなことを、私はコーチングやマネジメント研修の場面でよくきかれます。「部下を思うどおりに動かせるような質問の仕方は?」といった具合です。このように子ども学校に行かせる「科学的方法」を求めることに河合さんはこう書いています。

この言葉は非常に大切なことを示している。つまり、ここで「科学的方法」に頼るとするならば、父親と息子との間に完全な「切断」がなくてはならない。既に述べたように、近代科学の根本には対象に対する「切断」がある。しかし、この親の場合はあまりにも極端としても、われわれは他人を何らかの方法によって「操作」しようと考えることが多いのではなかろうか。(中略)しかし、もしそのように考えるならば、その人は他からまったく切断され、完全な孤立の状態になる。

現代は孤独に悩む人が多いが、そのひとつの原因として、自分の思うままに他人を動かそうという考えに知らぬ間にのめり込んで、結局のところは人と人との「関係」を失ってしまっていることが考えられないだろうか。相談室に訪れる多くの人に対して、「関係性の回復」ということが課題になっている、と感じさせられるのである。
先ほど述べたように、コーチングなどの研修に来られる人の多くは、最初は部下を変えよう、自分の思い通りに動かそうという方法を学びに来られます。しかし、研修を通して、「部下を変えようと思っていたが、自分を変える必要があるんだ」ということに気づき、部下との関係性を回復し、結果的に自分も部下も楽になり、本領を発揮するようになります。私が学び、実践しているコーアクティブ・コーチングは、「関係に力がある」というぐらい、関係を重視しているコーチングですが、どんどんと操作思考が強まり、孤独も増えている中で、ますます重要であることを改めて感じます。

そして、コーチとしても、ついつい、「こうしたからこうなった」「こうやったらこうなる」というような因果思考のワナにはまりがちです。そして、因果思考に頼ったほうが、思い切って全力を出しやすく、効果が生じやすいというやっかいな一面があります。
事象の非因果的連関を読み取る能力をもつことは、心理療法家として非常に大切なことである、と筆者は考えている。そして、偽の原因−結果という思考に支えられるのではなく、因果律的思考を放棄してなおかつ自分の存在をそこに賭けることができるようにしたいと願っている。
因果思考から離れるためには、目の前の相手を「モノ」ではなく「人」としてみることが何よりも大事でしょう。

コーアクティブ・コーチングは、「人生全体を取り扱う(Co-active Coaching addresses the client’s whole life)」という礎がありますが、それに加えて、コーチとクライアントが分離した存在ではなく、つながっている存在であることの自覚も必要のように思います。このことについては、「科学の知」に対して「臨床の知」を提唱している中村雄二郎の考えを本書では紹介しています。
人間を対象とする、と述べたが、その際、人間を生命あるものとして全体的にみるのであり、そのことによって、対象を「客体」として冷たく突き離すのではなく、中村雄二郎の言うように「相互主体的かつ相互作用的にみずからコミットする」態度によって、現象にかかわるのである。このことから、中村は「普遍主義の名のもとに自己の責任を解除しない」という特色を指摘している。
「自己の責任を解除しない」。

なかなか厳しい言葉ですが、本当にそうだと思います。決められたとおり、言われたとおりにやるのはある意味気楽でしょう。しかし、「自己の責任を解除しない」ことで、その場につねにコーチが存在し続け、クライアントとの関係が保たれていくのでしょう。

次の第4章「心理療法と教育」では、学校などの教育現場における心理療法、とりわけ「カウンセリング」について取り上げられています。これが読んでみると、企業などのマネジメント現場における「コーチング」を思い出されるようなことが書かれており、マネジメントにおいてコーチングを活用されている人にとても参考になるでしょう。
教師がいわゆるカウンセリングかぶれになると、教育の場において、まったくの自由を生徒に与えるべきだと考えたり、絶対教えないことをモットーにしたりして、生徒の「自主性」を尊重する教育であると言ったりするが、それも好ましくない。(中略)人間は自由の恩恵にあずかろうとするときは、そこに何らかの枠がないと駄目なのである。枠のない自由は人間を深い不安に陥れたり、無意識に自分を縛る枠をつくったりして、意味のある結果は得られないのである。
また、教育現場にカウンセリングが取り入れられたときに、「補導かカウンセリングか」といった対立的な捉え方がされたそうです。マネジメント現場にコーチングが取り入れられはじめたときにも、「鬼の上司か仏の上司か」「指示命令かコーチングか」というような捉え方がされていました。私自身もそんな捉え方をしていたように思います。しかし、そんな単純なものではありませんよね。以下に引用した河合さんの言葉はマネジメントにおける部下に対しても当てはまるでしょう。
教育というのはあくまで「人間」が対象であり、既に何度も繰り返したように、生きた人間を相手にすると、単純で整合的な論理によっては、ことが運ばないのである。人間のことがかかわってくると、多くの場合、「あれかこれか」ということではなく「あれもこれも」という考えの方に軍配があがり、後者は何といっても実際に行うのが困難なことなのである。補導かカウンセリングか、などという問題の立て方ではなく、一人の生徒に対して教師はいかにして「厳しく優しく」接しられるか、規則を守りつつ自由を確保するように接しられるか、を考えるべきである。
マネジメントの現場を見てみれば、コーチングなどを学ばなくても、部下との素晴らしいかかわりをされている上司はたくさんおられます。逆に、コーチングをはじめさまざまなスキルを一所懸命学ばれていても、部下とうまくいかない人も大勢おられます。そして、研修で教えられるコーチングにしても、1つの形であり、それぞれのマネジャーにはそれぞれの個性があるはずです。
事実、筆者は多くの現場の教師の方々に接してきたが、補導からきた人も、カウンセリングからきた人も、単純な教条主義に陥らず、あくまで生きた存在としての生徒を中心に据えて考え続けようとした人は、その後も成長を続けている。
質問するとか、うなづくといった形をコーチングととらえるのではなく、ここで書かれているように「生きた存在として」相手をとらえたりすることこそがコーチングといえるのかもしれません。そして、コーチングに引かれたり、コーチになりたいという人は、母性原理と父性原理について自覚し、その両方を大事にすることも必要になります。次に河合さんがカウンセラーについて書かれていることは、コーチにもそっくりそのまま当てはまるでしょう。
一般論で言えば、カウンセリングに関心をもつ人は母性原理の方が強いタイプであることが多い。しかし、カウンセラーとして成長してゆくためには、父性原理も身につけてゆかねばならない。カウンセラーとか教師とかは、両性具有的な傾向をもつ必要がある。このようにかんがえていると、その両方を鍛えてくれるのにふさわしい、クライアントや生徒が登場するもので、その人を相手に悪戦苦闘しているうちに、こちらも少しは成長するということになる。
そのほか、人が変わるということには、かなりの破壊性を持ち、それが内に向かう場合、外に向かう場合のどちらもあり、しっかりとそれを包み込む「容器」が必要なことをはじめ、変化・変容をうながすコーチングの内在する危険性についても自覚させてくれます。コーチング=「よいこと」と無条件に思い込んでしまう人も多いと思いますが、このあたりは気をつけたいところです。そして、一人にかかわれば、必ずその周囲にも変化をおよぼし、それは苦痛を伴う場合も当然あります。

私も企業の中でコーチングをする場合に、そのクライアントの上司をはじめ、周りの人からの反発などを受けて、「なぜ、コーチングやその意味がわからないのか!」なんて思うこともありますが、河合さんの次の言葉を肝に銘じておきたいと思います。
教師でカウンセリングをはじめる人のなかには、「よいことをしている」と手放しで感じている人がいるが、それは長続きしない。それは、よいことかもしれないが、相当に近所迷惑のことを敢えてしているのだという自覚が必要なのである。
第5章の「心理療法と宗教」も興味深いテーマです。コーチング、とりわけ、人生全体を取り扱うコーアクティブ・コーチングは、「これって宗教ですか?」といわれることも多いとききます。「宗教」にはいろいろな意味がこめられていると思いますが、確かにどこか重なる部分があることは確かです。

宗教が持つ「教義(ドグマ)」や「儀式」。それがあることによって、自分という人間の全存在を賭けてかかわり、深い体験をすることが可能になります。「儀式」に関しては、心理理療法にしろ、コーチングにしろ、儀式的なものはありますね。セッションの開始にしても、終了にしても、何らかのことを行うことで、セッションに深く入る、そこから出ることをサポートしています。

それでは、心理療法やコーチングに絶対的な「教義(ドグマ)」はあるのでしょうか? もしあるとすればなんなのでしょう。河合さんは、心理療法には「教義(ドグマ)」がない、持たないことが特徴だと位置づけているようです。また、「教義(ドグマ)」がない、ということが隠れた1つの「教義(ドグマ)」かもしれません。
考えてみると、心理療法家というのは、ドグマを持たずに全人的かかわりを強いられるという非常に困難な状態におかれている。それは言うなれば「宙ぶらりん」の状態である。しかし、何か特定のものにしがみつくことなく、宙ぶらりんの状態を永続させる強さをもつことは、心理療法家として実に必要なことであろう。それに耐えているとき、クライアント自身が解決を見出してゆくのである。
そのほか、「通過儀礼」との関連でも語られています。近代、現代になって、昔の社会では行われていた、子どもから大人になる通過儀礼のようなものがなくなり、それが宗教、心理療法、さらにはコーチングの場面で行われているとも考えられます。

第6章「心理療法における文化、社会的要因」では、クライアントを取り巻く、家族、文化、社会について考えています。
個人を取り巻いて、家族、社会、文化などがある。しかし、心理療法をしていると、個人のなかの家族、社会、文化などということを考えざるを得なくなってくる。一人の個人のなかに世界がある、とでも言いたくなるのである。従って、心理療法家は、クライアントという個人を通して、そのなかに存在する、家族、社会、文化などと相対しているように感じられる。
これはコーチとしても同じでしょう。身近なところでいえば、企業の中で1対1のコーチングを行っているとき、その企業の文化、組織というものと向き合っている感覚があります。心理療法でいえば、ユング派から出てきたアーノルド・ミンデルのプロセス・ワーク、ワールド・ワークでは、個人だけでなく、より大きな集団を扱うようになっています。コーチングでも、リレーションシップ・システム・コーチングご呼ばれるものが出ています。これはプロセス・ワークをコーチングという形にしたものですが、カップルやパートナー、チーム、部門などをシステムとしてとらえようというものです。

ただ、個人を取り巻く家族や組織、さらには社会、文化があるからといって、個人との1対1のコーチングではなく、より多くの人を同時にコーチングしたほうがいいのかというと、私は必ずしもそうではないと思っています。

まず、単純に、個人より大きな集団を扱うといっても、それを含んださらに大きな集団は考えられるわけで、極端な話、地球全体、さらには宇宙全体を相手にするという話になります。そして、1対1にしても、多くの人を相手にするにしても、その場にいないものを結局は扱うことになり、そうなると、コーチングを1人か10人か100人かというのはあまり関係がないように思うのです。

大事なのは、目の前のクライアントが何人であろうと、コーチングでは常に目の前にいる人、目の前に出ている事柄以外のことを常に扱っていると自覚することでしょう。目の前の人が一人で、仕事の話をしていたとしても、同時にそこにはその人の家族、両親、地域、そして、仕事に関連する組織、日本という社会、文化が存在していることに意識を広げておくことだと思うのです。(言うは易し、行うは難し、ですが)
一人の人間が少しでも変ろうとすることは実に大変なことである。自分だけが変るなどということは極めて難しい。自分が変るためには周囲を変えなければならない。心理療法家は、一人の人を引き受けるとき、ひとつの家族を引き受けている、という覚悟がいるし、学校全体を相手にしているように感じるときさえある。それが、日本文化、などということになると、自分自身の問題でもある。クライアントと話し合っているうちに、自分自身がどのようにして日本文化というものと折り合いをつけて生きているのか、ということを真剣に考えざるを得なくなってくる。そのときに、心理療法家はその問題に直面し、考えることを怠ってはならないのである。
心理療法にしろ、コーチングにしろ、何かやさしい、全員が円満、ニコニコハッピーというだけには終わらないものでしょう。それは1つの変革であり、革命ともいっていいものかもしれません。

逆にいえば、家族や組織の中で、何か変革を起こそう、何か違ったことを行おうとしている人が、心理療法を受けたり、コーチングを受けたりする必要になることも多いと思います。そんな場合、心理療法にしても、コーチングにしても、その人を家族や組織のほかの人たちち仲良くする、同じようになるのを目的とするのは、ちょっと違うでしょう。

かといって、自分とクライアントが正義の味方で、家族や組織のほかの人たちが「抵抗勢力」と位置づけてするのも違うような気がします。
いずれにしろ、ある程度の「戦い」や対決が生じてこそ、人間は変わってゆくのだから、これも避けがたいこともある。
このような「戦い」は下手をすると、クライアントが治療を受けることを家族がやめさせるとか、学校の校長とカウンセラーが戦ってカウンセラー室がなくなってしまうとか、相当な破局になることもある。しかし、このような争いを通じてこそ、日本の社会や文化も少しずつ変化してゆくのだと思うと、その意義もわかってくる。家族が悪いから駄目だとか、校長が無理解だとか怒ったり嘆いたりするよりも、前述したような意義と困難さが理解されていると、治療者の方に少し余裕が生じ、そのために争いを破局に到らしめず、建設的な方向に転じることができるのである。
これなどは私が企業でコーチングを行うときに、常に覚えておきたいことです。ついつい、コーチングに無理解な社長や上司などを嘆いてみたりしがちですが、たとえ1対1のコーチングであれ、それも含めてコーチングなわけですね。クライアントに「あなたはどうしたい?」と周りの環境を無視して個だけに焦点を当てるのではなく、そういった周りの環境にもしっかりと意識を向けながら、「あなたはどうしたい?」という問いを投げかけることが必要なのでしょう。

そのほかのこの章では、欧米のキリスト教的な「中心統合型」と、日本の「中空均衡型」との対比も行われています。コーチングというもの自体が欧米から生まれ、日本や東洋的なものの影響を受けている中で、「中心統合型」なのか「中空均衡型」なのかということも面白いポイントだと思います。

第7章「心理療法における技法」も考えさせられます。コーチングにしても、さまざまな技法が出てきています。そしてそのほとんどは心理療法の分野から出ています。心理療法もさまざまな技法があります。「コーチングと心理療法の違いは何ですか?」などという質問をよく受けますが、その技法にもし焦点を当てるとしたら、同じであると同時に違うということになるでしょう。コーチングにしても、さまざまなものがあり、心理療法にしてもさまざまなものがあるからです。
そんな中、河合さんの心理療法の技法について
心理療法の技法の中核は、人間と人間との関係ということである。このことは決して忘れてはならない。箱庭療法などというので、箱庭をつくれば治る、と言うのではない。
そして、心理療法の技法(art)は技術(technology)と儀式(ritual)の中間にあるとも言っています。
心理療法の技法の特徴は、あくまでこのような中間帯にとどまって、治療者も苦しみながらすすんでゆくところにあり、治療者があまり苦しまず、きまりかった方法で行っているときは、その分だけクライアントの苦しみを増すような、偽技術、偽儀式になってしまっていないかを反省すべきである。
うーん。このあたり、心理療法とコーチングの違いかもしれませんが、私などは、コーチングのツールというものをクライアントや一般の人にも活用してもらって、セルフ・コーチングというか、一人でも行うことの意味もあると思っています。たとえば、人生を8つの領域に分けて、今の満足度を10点満点でつけてみる「人生の輪」などは、コーチングを開始するときによく使われるツールですが、コーチングのときだけでなく、もっと気軽に使うようになればいいですし、それによって何らかの効果は期待できると思っています。

第8章「心理療法の初期」第9章「心理療法の諸問題」第10章「心理療法の終結」は、心理療法の過程に沿って、心理療法を見ていったものです。心理療法とコーチングでは受けにくるクライアントの抱えているテーマも違うとは思いますが、読んでいて、「そうかあ」と思ったところを覚書として引用しておきます。
最近では何ら症状をもたないが、「自分を知るため」とか「自己実現のため」などと称して心理療法家を訪れる人がある。そのときは特に注意が必要である。大きい内的課題をもちながら、それを「症状」として結実させるだけの力をもっていない人が、無意識的に治療の必要性を感じて来談されるからである。これは「教育分析」を受けにくる人にも、まったく当てはまることである。
コーチングのワークショップの参加者やコーチングのクライアントとしても十分に考えられるケースでしょう。「症状」があるかないかではなく、「症状」がないほうが、内的課題が大きいというのは、確かにそうかもしれません。「特に悩みはないんです」「問題はありません」といいながら、でも「自分をさらに成長させるためにコーチングを受けたい」という人は、まさにコーチングが想定しているクライアントのようで、実はコーチングでは扱いきれない場合もあるかもしれないのです。
初回面接の際自分の過去を語るときに、隠しておくべき秘密を早く語り過ぎる人も注意を要する。それは秘密を適当に保持し、語るべきときに語るという判断力などの強さがないために生じるのだから、治療は相当困難になることが予想される。それを治療者が「ここまで自分を信頼してくれているのだ」などと思って喜んでしまうと失敗の基となる。時には、クライアントの話をさえぎって、「それは非常に大切な話ですので、また後でゆっくり聞かせていただきましょう」などと言う方がよい場合もある。話される秘密が二人の関係によって消化できるものか、それをこえているものかの判断が必要である。
「秘密」というもの。これはとてもデリケートでそしてパワフルな存在だと思います。守秘義務契約の中の安全な場だからこそ話せる「秘密」。しかし、それを聴いて、受け止め、しかも抱えていけるかどうか、それは心理療法家やコーチの力量、器の大きさであると同時に、クライアントとの関係の力、大きさによるでしょう。関係はだんだんと育っていくものですから、秘密もだんだんと明かされていくことで抱えられるようになるのでしょう。
家族療法などのシステム療法については
家族全体が問題をかかえている、という場合はどうすればいいのか、そこで家族全体を対象に考えて行うのが家族療法である。家族全体のシステムを考え、それをどのように改変してゆくかを考えてゆく。筆者はあくまで個人療法を行っているので、家族療法的なアプローチは取らない。しかし、家族のダイナミズムについては常に考慮のなかにいれている。ただ、そのシステムに直接にかかわるのではなく、ある個人の可能性の発展に注目することによって、その個人の変化を通じて全体が変ってゆくことを狙う方法をとっているのである。

心理療法的には一人の人に会っていても、必要に応じて家族に会う必要があるのは当然である。しかし、このときの会い方は、深い層に注目するというよりは、クライアントと共に歩んでゆく家族の苦しみに対する理解と支持、あるいは適切な行動への示唆などが中心となってくる。クライアントと単純に同一化してしまって、育て方の悪い両親を非難するような態度になると、心理療法の過程を壊してしまうようなことにもなる。
心理療法にしろ、コーチング(特にコーアクティブ・コーチング)は関係を重視していますが、この関係性については、フロイト以来、心理学では「転移」「逆転移」ということで考えられてきました。「転移」とは、クライアントが心理療法家に対して、強い恋愛感情を抱くといった感情の流れであり、「逆転移」は心理療法家からクライアントに対して流れる感情の流れです。

私にとって、関係性を考えるうえで、この「転移」「逆転移」についてはとても興味があります。心理療法ではこれを自覚的に活用しようとするものが多いですが、コーチングでは、これを活用するどころか、ほとんど触れていないのです。ただ、これはしっかりと自覚しておく必要があると思います。一般的に、逆転移に関して、心理療法家の本来的な感情は有効に働くと考えられているようです。
ともかく修練を重ねることによって、自分の自然な感情の流れが有効な逆転移になるのである。そのためには、面接が終った後で、記録をつけながら考えてみることも必要であろう。ともかく記録を詳しく書くことは大切なことで、それを書くことによって、いろいろな反省点が意識される。そのような反省や自分自身の感情などを書いておくのもよい。
ユング派の河合さんは日本をはじめ世界の神話や昔話から心理療法についてよく語られていますが、本書では「トリックスター」について一節を割いて紹介しています。
トリックスターとはもともと神話や昔話などで活躍する者で、変幻自在で神出鬼没、何をやり出すかわからないのである。最低のときは単なるいたずら者で、いたずらが露見して殺されてしまったりするが、トリックスターの思いがけない活躍によって、今まで無縁と思われていたものが関係づけられたり、真実が明らかになったりする。
おそらく、あなた自身やあなたの周りの人に、この「トリックスター」的要素を見つけたり、それが発揮された場面を思い出すことがあるでしょう。私自身、自分はけっこうトリックスターを演じることがあるなあと、これまでの人生を振り返って思います。そして、誰の中にもトリックスターがいて、心理療法やコーチングの時間・空間では、このトリックスターが活発に働き始めるのです。
学校や家庭内で「困り者」とされている子どもは、多くの場合、そこの古い体制を破壊するためのトリックスターであることが多い。従って、心理療法家は、「困り者」を「よい子」にしようなどとは思わず、なし得れば、そのトリックスターの活躍によって古い体制が破壊されるのみならず新しい体制がつくられる方向に向かう道を共に歩みたいと思う。しかし、そのためには破壊を建設に変えるだけの強さが、本人にも本人を取り巻く周囲の人にも必要になってくる。周囲の人々が十分に強くないときは、トリックスターによる破壊を恐れ、トリックスターを殺すことのみを考えるであろう。
この「トリックスター」という考え、存在を共有の知識とすることで、もっと人や家族や組織が楽になるように思います。これが世の常と言い切れるかどうかはわかりませんが、個人にしても組織にしても社会にしても、新しいものが生まれ、古いものが壊れていきます。死と再生です。もしそうであれば、トリックスターはその大事な役割をになっているわけですし、心理療法家やコーチはチェンジ・エージェントとしてかかわっているといえるかもしれません。

最後の第11章は「心理療法家の訓練」。これはコーチとして、また3年ほどコーチ養成に携わった身として、これまた考えさせられました。自分自身、日々悩んでいますし、勇気付けられもしました。
「完全な」心理療法家などはいないのだから、心理療法をしていても、自分にその資格があるのかと迷い、時にはやめた方がいいのではないかと思ったりするのも当然で、それと「この職業以外に自分にとってすることはない」という確信との間に揺れることによって、心理療法家は成長してゆくのである。自分が心理療法を行っていることに疑いや迷いがまったくなくなる、ということは考えられないのではなかろうか。
また、資格についても触れられています。心理療法家も公認の資格はありませんが、コーチングももちろんありません。ただ、それぞれの教育機関が資格を認定しており、私が学んで教えていたCTIというコーチ養成機関でもCPCC(Certified Professional Coactive Coach)という資格を認定しています。

「資格」の功罪についてはいろいろ言われていますが、河合さんはクライアントの利益を守るために必要であると考えられています。ただし、ほかの専門職の資格とは違うとも言っています。
心理療法家にとって大切なことは、クライアントの実現傾向を尊重してゆく、という根本姿勢である。ところが、自分は「資格」をもった専門家である、ということを誤解すると、根本姿勢が崩れ、他人に対して自分の信じる理論を適用して、「判定」したり「操作」したり、したくなってくる。そして、それは治療者にとっては楽な方法である、という魅力をもっている。治療者が一段高いところに位置してしまうのである。
そのほか、心理療法家の訓練として「スーパーヴァイズ」や「事例研究」を挙げておられます。コーアクティブ・コーチングにおいて、スーパーヴァイズは行われており、その効果はとても認められています。ただし、それは1回1回のセッションに対してのものであり、あるクライアントに対して通したかかわりに対するスーパービジョンは行われていません。

本書を読んで、1回1回のセッションだけでなく、クライアントに対する通したかかわりをスーパーヴァイズされることがとても必要になってきているようにも思いました。

また、「事例研究」については、守秘義務もありほとんど行われていないのが現状だと思います。心理療法において守秘義務と事例研究をどのように折り合いをつけているのかわからず、聞いてみたいところです。これも、1回ごとのデモセッションだけでなく、ある一定期間におけるクライアントとコーチのやりとり、そこでの変化などを取り上げることが大事でしょう。

最後に心理療法家の成長について。ここではユングが掲げた「個性化の過程」を参考に、1つの姿を提示しています。
まず、この世に生きてゆくために必要な強さをもつ自我をつくりあげ、その自我が自分の無意識に対して開かれており、自我と無意識との対決と相互作用を通じて、自分の意識を拡大・強化してゆく。無意識の創造性に身をゆだねつつ生きることは、相当な苦しみを伴うものではあるが、それを回避せずに生きるのである。このことをクライアントに期待するのなら、治療者自身がその道を歩んでいなくては話にならない。
「話にならない」。まさしくそのとおりですが、うーーんですね。そして、私もそうなのですが、日本人の「反省ぐせ」に厳しい苦言をされています。
素早く反省して「すます」前に、このクライアントに自分は何ができるのか、理解するために何をすべきか、などなど少しでもできる努力をする。そのような徒労とも見える努力の重なりのなかで、成長ということが生じてくるのだ。心理療法家という職業を選ぶというのは、クライアントという人間のために努力を行っている、そのことによってわれわれ自身が成長するということでもある。自分のことを変に反省するよりは、クライアントのことを考えることによって、自分の生き方がわかるところがある、と言える。
河合さんの本はわかりやすく書かれていながら、ほとんど無駄なところがありません。そして、心理療法の専門家として、心理療法だけでなく、カウンセリングを日本に定着させたその知見は、コーチングを日本に定着させるために役立つものだと思います。久々に、『心理療法序説』を読んで深く感じました。文庫にもなっているのでぜひご一読を。
| 宇都出雅巳 | コーチング | 12:18 | comments(0) | - |
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