宇都出ブックセンター

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<わたしはだれ?>という問いに答えはない

 「わたしはだれ?」

こんな問いかけを自分自身にしたことはありませんか? 「自分らしさってなんだろう?」という問いだったかもしれません。

「自分探し」「私探し」については、いろいろと批判もありますが、多かれ少なかれ、だれもがこんな問いを一度は考えたことはあるでしょう。

コーチングをしている自分は、クライアントに「で、あなたは何者なんでしょう?」というように、セルフイメージや、ミッションに触れるような質問をすることは多々あります。

そして、そんな問いに対して、

「これがわたしなんだ!」

「これが本当の自分なんだ!」

「自分らしさはこれだ!」

と感じた体験があるかもしれません。

本書は、そんなあなたの本当の自分を発見するのを手助けしてくれる本ではありません。
本書が伝えたいのは、「<わたしはだれ?>という問いに答えはない」こと。

しかし、答えはないから、<わたしはだれ?>という問いが無意味なわけではありません。 そもそも、「わたしはだれ?」という問いをするのでしょう? 本書のプロローグにはこんなことが書かれています。

胃の存在はふだんは意識しない。その存在は故障してはじめて意識する。同じように、「わたしはだれ?」という問いは、たぶん<わたし>の存在が衰弱したときにはじめてきわ立ってくる。ということは、ここで<わたし>の意味というより、<わたし>が衰弱しているという事実とその意味をこそ問うべきではないのだろうか。

こんな調子でじわじわと<わたし>に迫っていきます。

ほんと、<わたし>って何でしょう? よくよく考えてみると、「わたしは●●なんだ!」という答えがみつかるというより、何か選んでいることのようにも思えてきます。

「自分は●●な人」「自分の好きな服はこれ」なんていいますが、「本当?」と言われるとかならず揺れるところがあるでしょう。まあ、絶対的な根拠、論理なんてないんですから。

また、そんなことを考えていない人でも、あなたがいつも守っている習慣や集めているモノなどはありませんか? もしかして、そんな習慣やモノが<わたし>になっているかもしれません。どういうことかというと……

 じぶんがとても不安定だと感じながら、あるいはじぶんの存在がとても希薄になっていると感じながら、しかもそのことにじぶんが気づいていないとき、ひとはじぶんに一つの「規則正しい」かたちを求める。が、ほとんどの「規則正しさ」は幻想でなりたっている。というのも、学校だって、会社だって、それがなければじぶんが滅びるというものではないのだから。そして、それを核にじぶんをつくっていると、「規則正しさ」とじぶんの存在との区別がつかなくなる。
「自分探し「私探し」がピンとこない人は、こんなふうに何かの「規則正しさ」に自分を結び付けているのかもしれません。それが悪いわけではありませんが、その規則正しさが乱れたり、その規則がなくなったときに、自分という存在を見失って、危機におちないよう、ときには「わたしってだれ?」という問いかけもして鍛えておくことが必要かもしれません。

それでは「わたしはだれ?」と問わざるをえない状態にある人はどうしたらいいんでしょう?

先ほど、本書で著者が伝えたいことは

「<わたしはだれ?>という問いに答えはない」


ことだと書きました。

じつはそのあとに但し書きがあります。
とりわけ、その問いを自分の内部に向け、そこになにか自分だけに固有なものをもとめる場合には。そんなものはどこにもない。
しかしこうも書いています。
じぶんが所有しているものとしてのじぶんの属性のうちにではなくて、だれかある他者にとっての他者のひとりでありえているという、そうしたありかたのなかに、ひとはかろうじてじぶんの存在を見いだすことができるだけだ。
まあ、これはよく言われたり、書かれたりしていることなのですが、じぶんというものを突き詰めてもなにもでてこなくて、自分以外の他者からみてはじめてじぶんが出てくるわけです。
わたしが<わたし>でありうるためには、わたしは他者の世界のなかに1つの確かな場所を占めているのでなければならない。
なので、<わたしはだれ?>という問いは、自分の内面に向けるのではなく、眼を外にむける必要があるのです。でもそこで気をつける必要があります。「自分探し」「わたし探し」をはじめた人は、もともとは他者からの割り当てられた「あなたは●●な人」というじぶんに「それは本当のじぶんではない!」と思って、内面に入っていったわけだからです。次のことはよく頭に入れておく必要があるでしょう。
しかし、それにしてもなぜ、ひとはいつも「だれか」になろうとするのか。「ほかでもないこのわたし」でないと、どうして生きていけないのか。しかし、それがなければ<わたし>がやっていけないもの、それは、ほんとうはわたしではなくて、他人がまず先に確認したいものだということはないだろうか。
つまり、他人というか周りが、「あなたはだれ?」と問いかけているのです。それはあなたに好奇心を向けているというより、その人たちが安心するためです。わからないと不安だからです。

ここ数年、セルフブランディングということが言われています。自分が何者かを明確にし、わかりやすいメッセージで伝え、すべての行動に一貫性をもたせるものです。それによって、お客さんを含めまわりがわかりやすく安心し、話もしやすくなり、付き合いやすくなるのです。

わたしなどは、節操もなくいろいろな本を出したり、いろいろなことに手を出すので、「宇都出さんって何者なんですか?」とよく聞かれます。「宇都出さんは何をやりたいのですか?」とも質問されます。

しっかりとセルフブランディングしてスパッと答えられたらいいのですが、なかなか相手がわかるようには説明できず、「この人は何者なんだろう?」という不安を与えたままになってしまうことが多いようです。

ちょっと話がずれましたが、こんなふうに、他人はあなたをわかろうとして、「あなたは●●な人」というレッテルというかシンボルを常に与えようとします。そして、あなたをわかろうとするのは、他人だけではありません。あなた自身もあなたをわかろうとして、何かにはめこもうとします。

それに反発するのでもなく、そこにはまりこんでしまうのでもなく、うまくダンスしていくことが生きていくコツです。「わたしらしくあらねば」「じぶんらしく生きなければ」というような強迫観念を手放してみましょう。「じぶんという存在がぼやけてしまうほうが心地よいこともある」のです。
ともあれじぶんを失うという事態をネガティヴにばかり考えるくせから一度離れてみる必要がある。(中略)同じ「憑かれる」なら、観念に憑かれて疲れはてるより、他のだれかに憑かれるほうがはるかにいい。じぶんの時間を他人のために失うことを、わたしたちはもっとポジティブに求めていいと思う。ちなみに「じぶんらしさ」というものは、イメージとして所有すべきものではなく、じぶん以外のなにかあるものを求めるプロセスのなかでかろうじて後からついてくるものだということを、わたしはマドンナの『SEX』から学んだ。「未知のこと、未経験のことを怖がっちゃだめよ」。マドンナはわたしたちにそう語っていた。
「これがわたしだ!」「これがじぶんらしさだ!」と思った時点で、それはわたしでなくなり、じぶんらしさでなくなっているのかもしれません。

わたしでないもの、じぶんらしくないものにも飛び込んで、わたしとかじぶんらしさとかをまったく意識しなくなったときに、「わたしはだれ?」という問いもなくなり、生きているわたしがいるのではないでしょうか。

そして、わたしかわたしでないのか、自分らしいのかそうでないのかにかかわらず、何かがある、生きているのはまぎれもない事実なのです。
| 宇都出雅巳 | 哲学 | 11:47 | comments(0) | - |
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