宇都出ブックセンター

本が大好きな宇都出雅巳(まさ)が、本の紹介をしています。
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「葛藤していることはむしろ、健康な状態なのです」

最初に書いておくと、本書はタイトルにある「「普通がいい」という病」について論じた本ではありません。「「普通がいい」という病」」については、「はじめに」でほぼ言い尽くされている感があります。

「はじめに」はこう始まっています。

私たちはみんな、ほかの人とは違う「角(つの)」を持って生まれてきました。「角」とは、自分が自分であることのシンボルであり、自分が生まれ持った宝、つまり生来の資質のことです。

この「角」は、何しろひときわ目立ちますから、他人は真っ先にその「角」のことを話題にしてきます。動物としての習性からでしょうか、集団の中で「角」のためにつつかれたり、冷やかされたりして、周囲から格好の餌食にされてしまうこともあります。そんなことが繰り返されますと、いつの間にか「この『角』があるから生きづらいんだ」と思うようになる人も出てきます。

自分が自分らしくあること、その大切な中心である「角」、それを自分自身で憎み、邪魔にして隠しながら生きるようになってしまうと、生きること自体が色あせ始め、無意味なものに感じられるようになってきます。生きるエネルギーは枯渇し、すべてが立ち行かなくなってしまいます。

この「角」がなくなった状態が「普通」というわけです。

「角」の切除を施された人たちは、初めに感じていたはずの窮屈さも忘れ、「普通」であることをみずから望むようになり、周囲の人間や子どもたちにも同じ価値観を求めはじめます。「『角』の切除をして普通になることが大人になることなのだ」という洗脳が、こうして拡大していきます。

「自分らしく生きる」ということもよく言われるようになりましたが、この「自分らしく生きる」ということすら、「自分らしく生きるとはどういうことなんだろう?」と周りを見て考える、なんていう「自分らしく」ないことが起こってきます。

 では、どうやってわれわれは生きていったらいいんでしょう? まあ、そんなふうに答えを求めること自体が、何かずれを生む気もしますが、本書は、著者が臨床の場面で感じたことがあれこれと生きていくヒントとして述べられています。

それは、いわゆる常識といいますか「普通」と思われていることと、ちょっと違っていて、なかなか新鮮です。

私が印象に残ったことをいくつか紹介したいと思います。

 「葛藤していることはむしろ、健康な状態なのです」

「こうしようか、ああしようか」とあれこれ悩んでいる状態というのは、悪い状態のように思われますが、著者「これ自体は病的な状態なのではない。葛藤できる健康な力があると言ってもよいのです」と言います。

逆に、葛藤を解決したいと思うと、悩んでいるどちらか一方が抑圧され、見かけではスッキリして葛藤はなくなるものの、本人の生きるエネルギー自体がなくなってきて、「うつ状態」に入っていくと言うのです。

ですから、治療としては、抑圧されているものを葛藤レベルまで持ち上げていってあげれば十分に意味のあることになります。よくクライアントの方は「治ったら、スッキリして悩みもなくなって、きっと楽になるはずだ」と考えがちですが、実際は、あるべき悩みを悩むようになる。それが「治る」ということなのです。
(中略)
まずは悩み・苦しみ・葛藤を持ちこたえられる力、葛藤が解決するまで持っている力、あるいは待っている力、これが養成されるように導くことが、ことに精神療法においては大切なことなのです。

 このあたり、病気や症状の解消に焦点を当てるのではなく、その人そのものの力に焦点を当てるところは、コーチングなんかと全く同じですね。

 特に、コーチングで出てくるテーマは、一見、何かアドバイスをすれば解決してしまいそうなことが多く、コーチはアドバイスやノウハウを教えてしまう誘惑にかられがちになるので、よけいに、このことは大事ですね。次の文章などは、コーチングにもそのまま当てはまります。

精神療法やカウンセリングの場面でついついセラピストは、クライアントの悩み・苦しみをどうにかしてあげようと、自分の考える答えを教えたくなってしまう。しかし、それはクライアント自身の、葛藤を持ちこたえる力を育てないどころか、自分自身で答えを見つけ出す力を退化させてしまい、セラピーへの依存を作ってしまうことになります。

 ここで、著者「自分自身で答えを見つけ出す力」というように「力」と表現しています。

 これも、コーチング(コーアクティブ・コーチング)の最も大事な礎ともいえる「クライアントはもともと完全な存在で自ら答えを見つける力を持っている」(The client is naturally creative, resourceful and whole.)そのものです。

 実は、コーチングにおいて、この部分が、「答えはクライアントの中にある」という表現で当初流布したことがあり、コーチングにかなり誤解されたという経緯があります。

 「答えはクライアントの中にある」というのは、非常にわかりやすく、そのために広まっていったのですが、焦点がクライアントの「答えを見つけ出す力」ではなく「答え」に当たってしまったのです。

 なので、「新入社員には知識や経験がないから、コーチングは使えない」とか「知識や経験がある人に質問しながら自分で気づかせることがコーチング」といった的外れな話になってしまいました。

 大事なことは、コーチのかかわりが「クライアントの答えを見つけ出す力」に焦点があたり、それを育てる方向に向かっているかです。

 コーチングが目指すところは、何か課題の答えを見つけることではなく、クライアントの成長であり、その力を育てることなのです。

 ついつい、本の紹介のつもりがコーチングについての自分の思いを語ってしまいました。。。
これは4年前にも当時、オールアバウトのコーチング・マネジメントガイドをしていたときに記事に書いたりして→ http://allabout.co.jp/gm/gc/291747/ 語ってきたことなのですが、まだまだ、誤解されているようなので、語ってしまいました。

 私が印象に残った二つ目は、「よい子育てのポイントは?」という質問に対する著者の答えとして書かれていた、

「マリア様がイエスを育てたようなつもりで育てること」

その心は、自分の子であっても他者として認識して育てることです。

聖母マリアは、イエスを神の授かりものとして身ごもり、育てたのであって、決して自分の子どもとは思わなかっただろうと想像するからです。

 日本でも、「子どもは天からの授かりもの」ということはよく言われますが、「マンション買うか、子ども生むか」といった言葉に象徴されるように、自分のコントロール下におかれるものという勘違いが生まれているように思います。

 私も今、5歳と1歳の子どもを持つ親ですが、子どもは自分の動作や言葉を真似るところがあることもあって、ついつい、自分と重ね合わせてしまいます。特に1歳の次男は私と誕生日が一緒ということもあって、なんだか、自分を見ているような気になってしまいます。
 でも、違う存在なんですよね。

子育てにおいて、このようにわが子を他者として認識することは、何よりも大切な基本です。これが分かっていれば、「子どもに良かれと思って」という一方的な押し付けは行われないでしょうし、「一体この子はどんな人間だろうか?」という自然な関心が湧いて、丁寧に観察することでしょう。親子の会話でも、自分はこう感じるがこの子はどうだろうかと、丁寧な擦り合わせが行われていくはずです。そして子育て全体が、親の欲望によってではなく、その子どもにとっての幸せのために方向づけられていくのではないでしょうか。

「わかったつもり」になるのではなく、新鮮な好奇心を持ちつつ、子どもに接していきたいと気持ちを新たにさせられました。

そのほか印象に残ったところでは、感情に関するもの

たとえば、ポジティブとネガティブという区分けに対する異議申し立てや、新たに「Oldな感情」と「Freshな感情」という新たな区分けなど、感情に対する新たな視点が得られます。詳しくは本書の第5講「精神の成熟過程」をお読みください。

また、「愛」に関する考察も興味深かったです。

個人的に「愛」という言葉には、いつも胡散臭さを感じて、ダメなんですが、本書の第6講「愛と欲望」を読んで、「愛」がちょっと腑に落ちて、身近になりました。

「5本のバナナ」という話を題材にわかりやすく説明してくれているのですが、ここでは結論だけ。

ですから、「愛」のために私たちにできる第一歩は、逆説的ですが、まず自分をきちんと満たしてやることなのです。ところが面白いことに、人間は自分を満たしても、必ずいくらかは余るように出来ている。この余った物を使ったときには「愛」の行為になる。ここが大事なポイントだとおもいます。

そして、「自信」について。

「自信を持てるようになりたい」ということを言う人は多いと思いますが、本書の第10講「螺旋の旅路」では「自信」について、

  「信じる」とはどういうことなのか?
  「自分」とは何か?

とうように二つに分けて論じられています。そして、いわゆる「自信」とおもわれているものとは、真逆と言ってもいいところに連れて行ってくれます。

まずは「信じる」について、

「信じる」とは本来、何の保証書もなしに、根拠なく行われるものです。(中略)ですから、もし「信じる」に根拠がくっついていたならば、それはもはや「信じる」ではないのです。

そして「信じる」対象となる「自分」について 

(前略)「自信」の「自」を、「自然」の「自」と考えてみてもよいのではないかと思うのです。「自分」という言葉では、どうにも有限な一個人のイメージが付きまといます。そういう限界のあるものを「信じる」ということ自体、土台無理があるともいえるわけで、底がぬけて自然とつながっているような無限に開かれた自分ならば、「信じる」こともすんなり出来るのではないでしょうか。

 「自然とつながっているような無限に開かれた自分」

 イメージできますか? 

 私はこれを読んで、6年ほど前に読んだ『脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説』(前野隆司著)に出ていた図を思い出しました。
(この本は、心の天動説から地動説へと転換してくれるなかなかのいい本なので、ぜひ読んでみてください)

 さて、このあたりから、いわゆる精神療法というより、スピリチュアルっぽいイメージも出てきたかとおもいますが、本書の最後では親鸞や空海など仏教からの話が中心になってきます。

そこで私の印象に残ったのは、主観と客観の話。

 コーチングやカウンセリングにおける聴くでは、自分の解釈を手放していくことが求められることもあり、この主観と客観の話はとても興味深かったです。

 私たちは主観を持っているわけですが、いざ客観的になろうとした時に、たいていの人は主観を押し殺して客観的になろうとします。しかし、これが大きな過ちであることを知っておかなければなりません。

 よくクライアントから、他で受けたカウンセリングについて「壁に向かって話しているようだった」という感想を聞くことがありますが、これなどはセラピストが客観的・中立的でなければならないと教育されてきたための弊害であろうと思われます。主観をなくして客観的であろうとするやり方は決して成功せず、このようにせいぜい「壁」になることに行き着くに過ぎません。それは、客観的になったのではなく、非人間的になったと言ったほうが近い。

 では、どうすればいいのか? 著者は次のように書いています。

 自分の中にある主観をむしろしっかりと育てていくこと。その純度を高めていくように磨きをかけていくこと。そうやって主観の純度が高いものになってはじめて、真に「独りよがり」と縁が切れる。そこではもはや客観は凌駕され、その認識は主客の区別を超えるものになっていくわけです。主観をしっかり育てていくことによって、主観も客観も乗り越えられ、一つ上の次元の認識に到達する。これが螺旋状の変化成熟過程なのです。
 主観というものは、当初「自分」「自己」「自我」などと言われているものに属しているのですが、純度を高めてある地点を超えたとき、この「自」が消えます。それはすなわち、主観の「主」が消えるということです。このようにして獲得された主客を超えた認識こそ、物事をあるがままに観ることを可能にするのです。

 ここの箇所を読んだとき、コーアクティブ・コーチングの傾聴(Listening)のレベル1・レベル2・レベル3を思い出しました。

 これは、人の話を聴いているときの意識の広がり度合いを表したもので、

  ● レベル1:内的傾聴(Internal Listening) 自分の中で起こっている反応、声にだけ意識がある状態

  ● レベル2:集中的傾聴(Focused Listening)自分だけでなく、相手にも意識がある状態 
  
  ● レベル3:全方位的傾聴(Global Listening)自分や相手だけでなく、自分と相手を包む空間にも意識がある状態

 とあらわされます。

このレベル1、レベル2、レベル3の大事なところは、それぞれが分かれたものではなく、レベル2はレベル1を含み、レベル3はレベル2を含むという包含関係にあることです。

 レベル1の状態はコーチングをしているときや人の話を聴こうとしているときには、相手の話を聴いていない状態で、よくない状態とされます。そして、レベル2、レベル3が必要だといわれるのですが、そのときに、レベル1も含んでレベル2、レベル3にいかないと、本書で書かれているように、「主観」を育てないで、「客観」というところに飛んでしまいます。

 自分の中で起きている反応にも気づいていく、しかも、気づいていなかった反応にも気づいていくことが必要不可欠です。ある意味、レベル1を深めていくことが必要なわけです。そして、レベル1を深めたときに自然とレベル2へと移行していきます。

 それを無理にレベル1ではなくレベル2というようにしようとすると、レベル1を深めることなく(本書でいうところの「主観」に磨きをかけることなく)相手に意識を向けようとすると、勘違いの方向に行ってしまうわけです。

 私自身、聴く技術として「意識の矢印」を自分に向ける、相手に向ける、という聴き方を提唱しているのですが、相手に向ける際に、自分で起きていることにもしっかり自覚しておくことが必要だと、最近常々おもって、メルマガ等では補足して伝えていました。

 そのことの意味を改めて本書で気づかさました。

かなり長くなりましたが、最後です。目的、目標、意味に関することです。

コーチングでは、

「あなたの目標は何ですか?」

「あなたの人生の目的は何でしょう?」

「あなたのミッション、使命は何ですか?」

といった問いをよく行います。

 もちろん、これは大事な問いですし、普段の生活でなかなか目を向けていないこういった側面に意識を向けることは重要です。ただし、本書はその先について、禅の知恵を引きながら、次のように書いています。

そう考えていきますと、「生きる意味がわからない」という問いについても、「この人は、生きる意味や目的がないと生きてこられなかったんだな」と分かる。確かに、そういうことを考える時期も必要ですし、それはそれでその時期には大切なものでしょう。「私は○○になりたい」とか、「○○のために私は生きる」というふうに人生の目的を考える。

 ところがあるところから先に行くと、そういう考えで進むのではなくなってきます。目的や目標というものは、ある種の導入に過ぎなかったことが分かってくる。そして、それまでとは逆に、目に見えたり言葉に出来たりするような「目的」に向かって生きるということの貧しさや窮屈さも分かってきます。そしてはじめて、何か大きな「流れ」が私たちを運んでいるのだということが感じられてくる。つまり、「自分らしく生きる」ということを追いかけてゆくうちに、主語の「自分」が消え、天命とでも言うべき大きな力が自分を動かし生かしていくことに気付くのです。

コーチングでは、

「あなたはどうしたいの?」
「あなたはどうありたいの?」

という問いに象徴されるように、「あなた」、つまり、クライアントの「自分」というものを強く意識してもらうことが中心になっていきます。


 著者が「はじめに」で書いているように、周囲にあわせようとするあまり、「自分」というものを見失い、忘れているものを思い出してもらうわけです。

 当然、「自分」というものを意識することで、周囲との葛藤が現れてきます。今まで感じなかったような「怒り」を感じることもあるでしょう。いわゆる「わがまま」になるかもしれません。お金や名誉、権力などを強引に求め始める人がいるかもしれません。

そして、同時にこういった動きに対して、批判的な意見も出てきます。

 「地球を守ろう」とか「自然との一体化」というような、いわゆる「スピリチュアル」な動きです。
 しかし、本書を読んでいると、こういった動きが何か対立するものでもなく、大きな流れの一つに見えてきます。

 タイトルにもあるように「普通がいい」という病もあれば、「普通ではいけない」(自分らしくなければならない)という病も見えてきます。

 そしてさらにいえば、それは「病」というようり、大きな流れの中の一つの側面、プロセスのようにも見えてきます。

いろいろなことを考えさせられ、気付かせてくれる本です。

| 宇都出雅巳 | セラピー | 10:56 | comments(0) | trackbacks(1) |
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